第二の黒船――日米貿易戦争から消費税導入へ、日本は何を選択したのか【第1部】

気になる出来事

本稿について――全2部で「消費税」を検証する

本稿は、全2部構成でお届けします。

また、一般に「日米貿易摩擦」と呼ばれる一連の経済対立について、その規模と政策対応の広がりを踏まえ、必要に応じて「日米貿易戦争」と表現します。これは軍事的な戦争を意味するものではありません。

第1部では、「なぜ日本は消費税を導入したのか」を考えます。

ただし、いきなり1989年の消費税導入から話を始めることはしません。

なぜなら、その数年前、日本を取り巻く国際経済環境そのものが大きく変化していたからです。

1980年代、日本は世界有数の経済大国へ成長しました。

自動車、半導体、家電、工作機械などで日本企業が世界市場を席巻する一方、米国では巨額の対日貿易赤字が政治問題となり、日米間では後に「貿易戦争」とまで呼ばれる激しい経済摩擦が発生します。

その過程では、CIAを含む米政府機関が日本経済、日本政府、日本側の交渉姿勢を詳細に分析していました。

そして日本側でも、市場開放、内需拡大、輸出依存型経済からの転換、税制改革など、国家の経済構造そのものを変更する政策が次々と打ち出されていきます。

本稿第1部では、米国政府の機密解除文書と日本政府の公開資料を可能な限り同じ時間軸に置き、

米国は何を求めたのか。

日本はそれをどう受け止めたのか。

そして日本自身は何を選択したのか。

を追います。

その先に、1989年4月1日の消費税導入があります。

続く第2部では、

「消費税は日本を豊かにしたのか」を検証します。

3%で始まった消費税は、5%、8%、10%へと引き上げられました。

その間、日本はバブル崩壊、長期低成長、実質所得や家計消費の停滞、雇用構造の変化、そして急速な少子高齢化を経験しています。

もちろん、それらすべてを消費税だけで説明することはできません。

そこで第2部では、消費税の効果だけでなく、財務当局が主張してきた「安定財源」「広く公平な負担」「社会保障を支える財源」といった利点についても正面から取り上げます。

その上で、消費税を維持することと、廃止すること。

長期的にどちらが日本の国益に資するのか。

ネット探検ラボとして評価します。

第1部では、まだその結論を出しません。

まず時計を1980年代へ戻したいと思います。


はじめに――これは「反米」の記事ではない

本稿ではCIAをはじめとする米政府機関の機密解除文書を扱います。

そのため、最初にネット探検ラボの立場を明確にしておきます。

本稿は米国を敵視するための記事ではありません

「米国が日本を潰した」という単純な物語を描くつもりもありません。

むしろ当時の米国の立場を考えれば、日本との経済関係を問題視したことには相応の理由があったと考えています。

当時は東西冷戦の最中でした。

米国は西側陣営の盟主として、ソビエト連邦とワルシャワ条約機構に対峙していました。

核戦力を維持し、欧州ではNATOを支え、東アジアにも米軍を展開し、世界規模の軍事・外交・情報体制を維持していました。

一方、日本は日米安全保障体制の下で高度経済成長を遂げました。

もちろん、日本も自衛隊を維持し、防衛費を負担し、在日米軍基地を提供しています。

「日本は安全保障について何も負担していなかった」という説明は正確ではありません。

しかし、西側世界全体の安全保障を担っていた米国と比較すれば、その負担には大きな差があったのは事実です。

そして、その日本が世界第2位の経済大国へ成長します。

ここで、当時の日米の経済規模を具体的に比較してみましょう。

ただし、本稿では現在一般的に使われているGDP(国内総生産)ではなく、“当時、日米両国で主要な経済指標として用いられていたGNP(Gross National Product/国民総生産)”を使います。

GDPとGNPは同じものではありません。

GDPが「その国の国内で生み出された付加価値」を測るのに対し、当時使われていたGNPは、GDPに海外から受け取った所得を加え、海外へ支払った所得を差し引いた「国民」を基準とする指標です。

1980年代の政策担当者が日本と米国の経済力を論じる際に見ていた代表的な物差しの一つが、このGNPでした。

したがって、当時の米国政府が日本の台頭をどのように受け止めていたのかを理解するためにも、GNPで比較することには意味があります。

そして、その数字を日米両政府が当時使用していた統計に基づいて比較すると――

当時のGNPは、

米国:約4.49兆ドル

これに対して、

日本:約2.39兆ドル

でした。

つまり日本のGNPは、すでに“米国の約53%”に達していました。

これだけなら「まだ米国の半分程度ではないか」と感じるかもしれません。

しかし、両国そのものの規模を比較すると、この数字の見え方は大きく変わります。

1987年当時の人口は、

米国:約2億4,200万人

日本:約1億2,200万人

でした。

つまり、日本の人口は米国のおよそ半分です。

さらに国土面積では、

米国:約983万平方キロメートル

日本:約38万平方キロメートル

であり、日本の国土は米国のおよそ26分の1にすぎません。

人口は約2分の1。

国土は約26分の1。

石油をはじめとする天然資源の多くを海外からの輸入に依存する島国です。

それにもかかわらず、米国4.49兆ドルに対して、日本2.39兆ドル。

日本は世界最大の経済大国である米国の半分を超えるGNPを生み出すまでに成長していました。

さらに、もう一つ象徴的な数字があります。

一人当たりGNPです。

1987年、日本の一人当たりGNPは約1万9,600ドル

これに対して米国は約1万8,400ドル

ついに日本は、一人当たりGNPという当時広く使われていた指標で米国を上回りました

もちろん、ドル換算されたGNPには為替レート、とりわけプラザ合意以降の急速な円高が大きく影響しています。

したがって、この数字だけをもって「日本人が米国人より豊かになった」と単純に評価することはできません。

しかし、当時の米国から日本がどのように見えていたのかを理解するうえでは、極めて重要な数字です。

人口は米国の約半分。

国土は約26分の1。

それでもGNPは米国の53%。

一人当たりGNPでは、ついに米国を上回った。

しかも、当時の日本経済を支えていたのは強大な国内製造業でした。

自動車、半導体、家電、鉄鋼、造船、工作機械、精密機器――。

日本企業は国内に巨大な生産設備とサプライチェーンを抱え、そこで大量の製品を生産し、世界市場へ輸出していました。

日本はまさに、「国内で作り、世界へ売る」巨大な製造国家」だったのです。

一方の米国では、製造業を取り巻く環境への危機感が強まっていました。

工場の閉鎖や製造業雇用の減少、鉄鋼や自動車などにおける国際競争力への不安、そして拡大する対日貿易赤字。

米国の政策担当者から見れば、日本の急成長は単に「同盟国が豊かになった」という話では済まなくなっていました。

さらに当時は東西冷戦の最中です。

米国は西側世界の安全保障を支えるため、世界各地に軍事力を展開し、ソビエト連邦とワルシャワ条約機構に対峙していました。

その一方、日本の防衛費はGNP比でおおむね1%前後に抑えられていました。

米国側から見れば、

「西側世界の安全保障では米国が巨大な負担を背負っている。その国際秩序の恩恵を受ける同盟国・日本は、人口が米国の半分でありながらGNPでは米国の半分を超え、一人当たりGNPでは米国を追い越し、強大な製造業を背景に米国市場へ大量の製品を送り込んでいる」

という構図が存在していたことになります。

もちろん、日本が経済成長したこと自体を問題視すべきではありません。

日本企業の技術開発、生産管理、品質管理、設備投資、労働者の技能、そして戦後日本が積み重ねてきた産業政策によって獲得した競争力でもあります。

しかし、国家間の経済競争という視点に立てば話は別です。

  • 自国の工場が閉鎖される
  • 雇用が失われる
  • 重要産業の競争力が低下する
  • 対日貿易赤字が拡大する

そして、その相手である日本は猛烈な勢いで米国との経済格差を縮めている。

米国政府がこれを国家的な問題として認識するようになったことには、十分な理由があったと考えます。

日本は米国にとって…

安全保障上は守るべき重要な同盟国でありながら、経済・産業・技術の分野では米国自身の優位を脅かしかねない巨大な競争相手

…という、極めて複雑な存在になっていたのです。

そして、この日本を米国政府はどのように分析していたのか。

その一端を、現在機密解除されているCIA文書から具体的に見ることができます。


CIAの役割と米国政府の対日貿易交渉

CIA――Central Intelligence Agency(中央情報局)

その名前を知らない日本人は、おそらく多くないでしょう。

冷戦期、CIAはソビエト連邦をはじめとする東側諸国の軍事・政治・経済情勢を分析し、米国の国家安全保障政策を情報面から支える中心的な機関の一つでした。

では、なぜそのCIAが、同盟国である日本を専門的に分析していたのでしょうか。

ここまで見てきた1980年代の日米関係を考えれば、その背景は決して不可解なものではありません。

日本は米国の敵国ではありませんでした。

むしろ冷戦下の東アジアにおいて、米国にとって極めて重要な同盟国です。

その一方で、経済面ではまったく別の問題が生じていました。

日本は世界第2位の経済大国へ成長し、自動車、半導体、家電、鉄鋼、造船、工作機械など、米国の産業競争力そのものに関わる分野で急速に存在感を高めていました。

さらに日本の対米貿易黒字は拡大し、米国内では製造業の競争力や雇用への懸念が政治問題となっていきます。

つまり米国政府にとって日本は、

安全保障では支えるべき同盟国でありながら、経済では自国の産業政策や通商政策を左右するほど巨大な競争相手

…という、非常に複雑な存在になっていました。

だからこそ米国政府には、日本について単なる貿易統計以上の情報が必要になっていきます。

  • 日本経済は今後どこまで成長するのか
  • 日本の輸出競争力はどこから生まれているのか
  • 日本政府は市場開放要求にどう対応するのか
  • どの分野なら譲歩する可能性があるのか
  • 逆に、日本政府が絶対に譲らない分野はどこなのか
  • そして、日本の政策決定を実際に動かしているのは誰なのか
  • 外交・通商交渉を進めるうえで、こうした情報は極めて重要です

その分析を担った機関の一つがCIAでした


CIA内部に存在した「Japan Branch」

現在公開されているCIAの機密解除文書を調べていくと、興味深い名称が登場します。

Japan Branch です。

1982年1月5日、CIA情報部門は、

“JAPAN: Headed for a Record Trade Surplus”
(日本:記録的な貿易黒字へ)

と題する文書を作成しています。

そして、その冒頭には作成部署が明記されています。

Japan Branch
Northeast Asia Division
Office of East Asian Analysis

つまりCIAの東アジア分析部門には、日本を専門的に分析する「Japan Branch(日本課)」が実際に存在していたのです。

ここは誤解のないようにしておきたいと思います。

この文書だけから、Japan Branchを「日本に秘密工作を仕掛けるための特殊部隊」などと評価することはできません。

確認できるのは、CIAが日本を独立した重要な分析対象として扱い、専門的に分析する部門を置いていたという事実です。

そして重要なのは、そのJapan Branchが何を分析していたのかです。

CIAが見ていたのは「日本の貿易黒字」だけではない

1982年の文書を読むと、CIAは日本についてかなり具体的な経済分析を行っています。

1981年、日本の経常収支は前年の約112億ドルの赤字から、およそ69億ドルの黒字へ転換したとCIAは分析しました。

そして翌1982年について、

貿易黒字:約350億ドル

経常黒字:約185億ドル

にまで拡大すると予測していました。

その背景としてCIAが注目したのが、日本の輸出競争力です。

  • 船舶
  • 自動車
  • 家電
  • 鉄鋼
  • 化学製品

さらにCIAは、円相場、単位労働コスト、原油輸入、原材料価格、日本国内の需要まで分析しています。

特に興味深いのが、日本政府が米国や欧州との貿易摩擦を緩和するために発表した市場開放策への評価です。

CIAは、その政策について、1982年の日本の貿易黒字を縮小させる効果は限定的であり、農産物をめぐる非関税障壁についても大幅な変更にはつながらないだろうと分析していました。

つまりCIAは、「日本政府が市場開放策を発表した」という事実だけを報告していたわけではありません。

  • その政策が本当に日本市場を開くのか
  • 米国企業にとって実質的な効果があるのか
  • 日本の貿易黒字を縮小させるほどの政策なのか

そこまで評価していたのです。

これは、単なる経済統計の収集とは意味が違います。

CIAは、日本政府が発表する政策の実効性そのものを評価していたことになります。

そして分析は「日本はどこまで譲るのか」へ

さらに時代を2年進めます。

1984年3月6日。

CIA国家情報会議の東アジア担当国家情報官David D. Griesは、CIA長官と副長官に、

“Japan Steering Group”

と題するSECRET指定のメモを提出しています。

ここから、CIAによる日本分析と米国政府の対日交渉が、どのようにつながっていたのかが、さらに具体的に見えてきます。

当時の日米間には…

  • 牛肉・柑橘類
  • VANS(付加価値通信網)
  • ソフトウェア
  • 人工衛星
  • 関税
  • 円の自由化――

といった数多くの懸案がありました。

そしてCIAのJapan Branch担当者は、これらについて“「日本側が現在どの位置にいるのか」”を米政府関係者へ説明していました。

場所は――

ホワイトハウスのSituation Room(シチュエーション・ルーム)でした。

ここで重要なのは、「CIAが日本を分析していた」という事実そのものではありません。

その分析が、実際の米国政府の対日交渉戦略へ接続されていたことです。

そして、この文書には、今回の日米貿易戦争を考えるうえで非常に象徴的な一文が残されています。

CIAに求められたのは、日本経済についての一般的な解説ではありませんでした。

「日本から最終的に何を獲得できるのか」その判断材料となる分析だったのです。


ホワイトハウスSituation Roomで分析された「日本の譲歩限界」

1984年3月6日。

CIA国家情報会議(National Intelligence Council)の東アジア担当国家情報官、David D. Griesは、CIA長官と副長官に宛てて

「Japan Steering Group」と題するメモを提出しています。

この文書には、当時の機密区分であるSECRETの表示が付されていました。

現在は機密解除され、CIAの公開資料として読むことができます。

この文書が興味深いのは、日本について何を分析していたのかだけではありません。

CIAによる情報分析と、ホワイトハウスを中心とする米国政府の対日政策が、どのように接続していたのか。

その一端が、かなり具体的に記録されているからです。

「日本へ再び圧力をかけるべきか」

文書によれば、前日の3月5日、対日問題を扱う関係者による朝食会が開かれていました。

そこで議論されていたのは…

米政府高官を再び日本へ派遣し、米国が引き続き強い関心を持っていることを日本側へ示すべきか

という問題でした。

候補として名前が挙がっていたのが、Donald Gregg、Gaston Sigur、Paul Wolfowitzらです。

この時点では派遣について結論は出ませんでした。

しかし文書には、日本の国会で予算審議が行われており、中曽根康弘首相と閣僚がその対応に追われていること、さらに3月27日から国会が休会に入ることまで記されています。

そこで…

3月20日ごろにSigurが中曽根首相と会い、レーガン大統領が「合理的な解決」に引き続き関心を持っていることを伝える

…という案まで検討されていました。

ここまで読むだけでも、米政府が日本国内の政治日程まで見ながら、対日交渉のタイミングを検討していたことが分かります。

しかし、さらに重要なのはその直後です。

CIA Japan BranchがSituation Roomへ入る

朝食会終了後、事前の取り決めに従ってCIAの東アジア分析部門、OEA/Japan Branchの担当者が合流します。

場所は…

White House Situation Room
(ホワイトハウス・シチュエーション・ルーム)

…でした。

そこでCIA担当者は、日米間に残されていた個々の問題について、

「日本側が現在どの位置にいるのか」を説明しています。

文書に列挙されている案件は…

  • 牛肉・柑橘類
  • VANS(付加価値通信網)
  • ソフトウェア
  • 人工衛星
  • 関税
  • 円の自由化

…などです。

ここでCIAが担っていた役割が、かなり明確になってきます。

CIAは単に…

  • 「日本にはこういう制度があります」
  • 「日本の貿易黒字はこれだけです」

…と説明していたわけではありません。

米国政府が実際に日本と交渉している案件について、

日本政府が現在どの位置にいるのかを分析し、政策担当者へ提供していたのです。

言い換えれば、

  • 日本は何を受け入れそうなのか
  • 何について抵抗しているのか
  • どこまでなら譲歩する可能性があるのか

そうした交渉相手としての日本の位置を読むための情報をCIAが提供していたことになります。

ブッシュ(父)副大統領が評価したCIAの分析

さらに、このJapan Branchによるブリーフィングとは別に、CIAはその前週、ある分析資料を作成していました。

テーマは、

米国が日本製品に対して一律関税を課した場合、日本にどのような影響が生じるのか

…というものでした。

しかも、この分析はCIAが自主的に作ったものではありません。

当時のジョージ・H・W・ブッシュ副大統領の要請によって作成されたものでした。

そしてDonald Greggは、ブッシュ副大統領がその分析を高く評価し、自分の資料に、

“a good paper”

と書き込んだことを報告しています。

ここでも注意したいのは、CIAが政策そのものを決定していたわけではないということです。

  • 関税をかけるのか。
  • 日本へ何を要求するのか。
  • どこで妥協するのか。

それを決めるのは大統領、副大統領、USTR、財務省、商務省などの政策担当部門です。

CIAの役割は、その判断に必要となる情報と分析を提供することでした。

そして、その分析が副大統領レベルで直接利用されていたことが、この文書から確認できます。

「3月30日時点で、日本は最終的にどこまで譲るのか」

さらにGriesは、Japan Branch側に新たな分析を求めます。

それは、各貿易問題について、「3月30日時点で予想される日本側の最終的な立場」

を1~2ページ程度にまとめるというものでした。

これはかなり重要です。

求められていたのは、現在の日本政府の立場を説明することではありません。

交渉を続けた結果、日本が最終的にどこまで動く可能性があるのかを予測すること

でした。

しかも、同じような予測はCIAだけに求められていたわけではありません。

ブッシュ副大統領は…

  • 商務省
  • STR(現在のUSTR)
  • エネルギー省
  • 財務省

…などにも同様のリストを求めていました。

つまり米政府は、一つの省庁の判断だけで日本側の出方を読もうとしていたのではありません。

  • 通商
  • 財政・金融
  • エネルギー
  • 情報分析

…それぞれ異なる立場から日本を分析させ、その結果を比較しようとしていました。

そして、この文書には、その目的を端的に示す言葉が残されています。

CIAの分析は…

“a kind of gauge of what is obtainable”

として利用できる、と書かれています。

直訳すれば…

「何が獲得可能なのかを測る一種の尺度」

…です。

少し意訳するなら…

「日本から最終的にどこまで譲歩を引き出せるのかを測る物差し」

…と考えると、その意味が分かりやすいでしょう。

情報機関と政策部門の連携

そして、このメモの最後にDavid Griesは、非常に興味深い評価を残しています。

今回の取り組みにおいて…

情報コミュニティと政策コミュニティの連携が非常にうまく発展している

…という趣旨です。

この一文は重要です。

CIAが日本について調査していたというだけではありません。

  • CIAという情報機関が日本を分析する。
  • その分析をホワイトハウスや副大統領府などの政策担当者が受け取る。
  • 商務省、STR、財務省、エネルギー省なども、それぞれの立場から日本側の譲歩可能性を分析する。

それらを材料として、米政府が日本との交渉方針を組み立てていく。

情報分析と政策形成が、一つの対日戦略の中で連動していたことが、この短い機密文書から見えてくるのです。


これは「CIAが日本を操っていた」という話ではない

ここで、本稿の立場をもう一度明確にしておきたいと思います。

この文書を、「CIAが日本政府を裏から操っていた証拠」と読むのは適切ではありません。

少なくとも、ここまで確認した機密解除文書から、そのような結論を導くことはできません。

むしろ確認できるのは、もっと現実的な国家間交渉の姿です。

米国は、自国の産業と国益を守るため、日本という巨大な経済競争相手を徹底的に研究していました。

そして交渉を行う以上…

  • 相手が何を考えているのか
  • 何を守ろうとしているのか
  • どこまで圧力をかけられるのか
  • どこで妥協する可能性があるのか
  • それを可能な限り正確に把握しようとする

…国家として考えれば、むしろ合理的な行動です。

問題は別のところにあります。

これほど組織的に日本を分析していた米国に対して、日本政府はどのような国家戦略を持って交渉していたのでしょうか。


ここから、視点をワシントンから東京へ移してみます。

米国側の機密解除文書と、日本政府自身が残した外交文書・政策文書を同じ時間軸に並べると、

「米国が何を求めていたのか」と「日本が何を選択したのか」

の双方が見えてきます。

そして1985年。

日米貿易戦争は、一つの大きな転換点を迎えることになります。

中曽根康弘首相とロナルド・レーガン大統領。

両首脳の関係は「ロン・ヤス」と呼ばれるほど親密でした。

しかし、その親密な首脳関係とは別に、日米間では極めて厳しい経済交渉が進行していました。

次に見るのは、1985年の日米首脳会談とMOSS協議、そして日本政府が打ち出した市場開放政策です。


「ロン・ヤス」――蜜月の裏で続いていた日米貿易戦争

1985年1月2日。

中曽根康弘首相は米国を訪問し、ロサンゼルスでロナルド・レーガン大統領と会談しました。

二人の関係は、後にそれぞれのファーストネームを取って、

「ロン・ヤス」

と呼ばれるほど親密なものとして知られるようになります。

実際、会談後のレーガン大統領の発言からも、中曽根首相に対する強い信頼感が読み取れます。

レーガンは日米関係について、世界の平和と繁栄にとってこれ以上重要な関係はないという趣旨を述べています。

しかし――。

首脳同士が親密であることと、国家間の利害が一致することは同じではありません。

むしろ、この「ロン・ヤス」と呼ばれた蜜月の時代に、日米間では極めて厳しい経済交渉が進んでいました。

外務省が現在公開している日米経済関係年表を見ると、1985年は一つの転換点として浮かび上がります。

この年、中曽根・レーガン合意によって、

MOSS協議
Market-Oriented Sector-Selective Talks
(市場志向型分野別協議)

が開始されました。

対象となったのは…

  • エレクトロニクス
  • 電気通信
  • 医薬品・医療機器
  • 林産物
  • そして後には輸送機器

いずれも、これからの産業競争力を左右する重要な分野でした。

MOSS協議の特徴は、単純に、「日本の関税を下げてください」という交渉ではなかったことです。

日本市場に米国企業が参入するうえで障害となっている制度、規格、認証、政府調達、商慣行などを、産業分野ごとに掘り下げて検討する仕組みでした。

レーガン政権自身も後に、MOSS協議について、特定分野に存在する貿易障壁を洗い出し、日本側にその撤廃を促す取り組みだったと説明しています。

ここまで本稿で見てきたCIAの分析と重ねると、その意味がより鮮明になります。

CIAは、日本政府がどこまで譲歩する可能性があるのかを分析していました。

USTR、財務省、商務省なども、それぞれの立場から日本を分析していました。

そして実際の交渉では、個々の商品だけではなく、

日本市場を構成している制度そのものが交渉対象になっていったのです。


しかし、中曽根政権は「押し切られただけ」だったのか

ここで日本側の文書を読んでみます。

すると、単純な「米国から圧力を受け、日本が譲歩した」という説明では収まりません。

1985年4月9日、日本政府は対外経済対策を決定します。

その中で、市場アクセス改善のための包括的なアクション・プログラムを策定する方針を打ち出しました。

そこで掲げられた考え方が。「原則自由、例外制限」でした。

  • 関税
  • 輸入制限
  • 基準・認証制度
  • 輸入手続き
  • 政府調達
  • 金融・資本市場
  • サービス分野

日本政府は、これらについて制度を広範囲に見直していく方針を示します。

そして7月30日。

中曽根政権は、「市場アクセス改善のためのアクション・プログラム」の骨格を決定します。

中曽根首相は、その理由について非常に興味深い説明をしています。

戦後日本は自由貿易体制から大きな恩恵を受け、自由主義諸国で第2位の経済力を持つまでになった。

だからこそ、その経済力にふさわしい責任を負い、保護主義の拡大を防ぐため、日本自身が市場開放を進める必要がある――。

そして、この政策を日本が“「自主的に打ち出した」”ものだと位置付けました。

ここは重要です。

米国側から見れば、「日本市場をもっと開け」という要求でした。

しかし日本側では、「世界第2位の経済大国として、自由貿易体制を守る責任を果たす」という国家政策として説明されていたのです。

どちらか一方だけを読めば、歴史の見え方は大きく変わります。

だからこそ、本稿では両方を並べます。


米国は日本の「自主的市場開放」をどう見たのか

では、米国は日本政府のアクション・プログラムを歓迎したのでしょうか。

1985年7月30日。

レーガン政権は、日本政府が発表した市場開放プログラムについて声明を出しています。

評価は、かなり慎重でした。

日本が市場開放へ向けた包括的な枠組みを作ったこと自体は歓迎する。

しかし、本当に日本市場の障壁が取り除かれ、米国からの輸出が増えるのかは、実際の結果を見るまで判断できない。そういう姿勢でした。

つまり、日本政府は、「自主的に市場を開く」と言う。

米国政府は、「実際に輸入が増えるかを見る」と言う。

「ロン・ヤス」という親密な首脳関係の下でも、国家間の交渉は極めて現実的でした。

友情と国益は別だったのです。


1985年9月――プラザ合意

そして1985年9月22日。

日米貿易戦争の流れを考えるうえで避けて通れない出来事が起きます。

ニューヨークのプラザホテルに…

  • 米国
  • 日本
  • 西ドイツ
  • フランス
  • 英国

のG5財務相・中央銀行総裁が集まりました。

プラザ合意です。

背景にあったのは、極端なドル高と米国の巨大な経常赤字でした。

主要国は為替レートの調整が必要との認識で一致し、その後ドルは下落、円は急速に上昇していきます。

日本にとって、この円高は重大な意味を持ちました。

それまで日本経済を支えてきた、「国内で作り、世界へ売る」という輸出型の成長モデルが、大きな圧力を受けることになったからです。

円が高くなれば、日本国内で作った商品を海外へ輸出する際の価格競争力は低下します。

日本企業は否応なく、新しい対応を迫られました。

そして、日本政府自身も経済政策の方向転換を迫られていきます。


「輸出で稼ぐ日本」から「国内で成長する日本」へ

プラザ合意後の円高を受け、日本政府が本格的に掲げるようになったのが、内需主導型経済への転換です。

1985年中にも、日本政府は国内需要を拡大するための政策を相次いで打ち出しました。

外務省の外交青書にも、1985年の市場アクセス改善策に加え、同年10月と12月に内需拡大策をまとめたことが記録されています。

そして翌1986年。

中曽根首相の私的諮問機関である、「国際協調のための経済構造調整研究会」が報告書をまとめます。

会長を務めた前川春雄・元日本銀行総裁の名前から、「前川レポート」として知られる文書です。

その方向性は明確でした。

日本経済を…

  • 輸出依存型から内需主導型へ転換する。
  • 日本自身が国内需要を拡大する。
  • 市場をさらに開放する。
  • 輸入を増やす。
  • 国民生活の質を向上させる。
  • そして世界経済との摩擦を減らしていく。

…日本政府はこの方向を政策として取り込みました。

1986年の外交青書にも、「内需主導型の経済成長」と、「国際的に調和のとれた産業構造への転換」を進めることが国際協調上重要だと明記されています。

ここで、1980年代前半とは日本経済の方向が変わり始めます。

それまでの…

国内で大量に作る

世界へ輸出する

外需によって成長する

というモデルから…

国内で所得を生む

国内で消費・投資する

内需によって成長する

というモデルへの転換です。

少なくとも政策理念としては、日本はその方向へ舵を切りました。


そして、もう一つの改革が進んでいた

ところが、同じ時期、日本国内では別の大きな政策転換が進められていました。

税制改革です。

ここは、本稿で慎重に扱わなければならない部分です。

日本に広範な消費課税を導入しようという議論は、日米貿易戦争によって突然生まれたものではありません。

1970年代の大平政権では「一般消費税」の導入が検討されています。

したがって、「米国が日本に消費税を導入させた」と説明することはできません。

少なくとも、これまで確認した一次資料から、そのような直接的要求は確認できていません。

しかし――。

ここで時間軸を並べてみる必要があります。

1985年。

日本は市場開放へ大きく舵を切る。

同年、プラザ合意によって急速な円高が始まる。

1986年。

前川レポートが、輸出依存から内需主導への転換を提言する。

そして1987年。

中曽根政権は、売上税の導入を試みます。

しかし国民から強い反発を受け、法案は廃案となりました。

広範な消費課税を導入するという構想は、ここで一度挫折します。

ところが、政策そのものが消えたわけではありません。


中曽根から竹下へ――税制改革は引き継がれた

1987年11月。

中曽根康弘から竹下登へ政権が移ります。

そして竹下政権は、再び税制の抜本改革に取り組みます。

1988年12月。

税制改革法が成立しました。

この法律は現在もe-Govで全文を確認することができます。

そこに書かれている税制改革の理由を読むと、興味深いことに気づきます。

現在、消費税について説明される際には…

  • 「少子高齢化」
  • 「社会保障財源」
  • 「安定財源」

…といった言葉を聞くことが多いと思います。

しかし1988年の税制改革法が掲げた理由は、それだけではありません。

法律は…

  • 産業構造の変化
  • 就業構造の変化
  • 所得水準の上昇と平準化
  • 消費の多様化
  • サービス経済化

そして・・・

  • 「経済取引の国際化」

…によって、従来の税体系と経済社会との間に不整合が生じていると説明しています。

そして、所得・消費・資産に対する課税を適切に組み合わせるという考え方の下、税体系そのものを組み替えることになりました。

  • 所得税では、税率構造を簡素化し、累進度を緩和する。
  • 法人税では、基本税率を引き下げる。

そして…

  • 消費に対して広く課税する新しい税を導入する。

それが、消費税でした。税率は、3%。

1988年12月に制度が創設され、翌1989年4月1日から施行されました。


ここで、一つの大きな疑問が生まれる

ここまで1980年代の日米関係を時間軸で追ってきました。

もう一度並べてみます。

日米貿易戦争

米国による日本市場の開放要求

日本の市場アクセス改善

プラザ合意と急速な円高

輸出依存型経済からの転換

内需拡大

前川レポート

内需主導型経済への構造転換

税制の抜本改革

消費税導入

ここで、本稿の最初の大きな問いに到達します。

日本は、外需依存から脱却するため、

国内需要を拡大する』 という国家目標を掲げました

ところが、その数年後、国内で行われる消費そのものに広く課税する制度を導入します。

もちろん、この二つだけを取り出して、

「内需拡大と消費税は矛盾している」と即断することはできません。

1988年の税制改革は、消費税だけを単独で導入した政策ではありません。

  • 所得税の減税
  • 法人税率の引き下げ
  • 既存の物品税などの整理
  • そして消費税

税体系全体を組み替える改革でした。

したがって、その経済効果も税制全体として評価する必要があります。

しかし、それでも問いは残ります。

内需を拡大することで成長しようとしていた日本に、消費そのものへ恒久的に課税する制度は、本当に最適な選択だったのでしょうか。


消費税導入――ここで第1部まとめへ

1989年4月1日。

日本で初めて、3%の消費税が導入されました。

本稿第1部では、ここで時計を止めます。

消費税が導入された1989年、日本はまだ「失われた30年」の入り口に立っているとは認識していませんでした。

むしろ日本経済は、世界から驚異的な成功例として見られていました。

一人当たりGNPでは米国を上回る水準に到達し、世界を代表する企業が次々と誕生していました。

土地と株式の価格は上昇し、日本経済への自信は頂点に近づいていました。

しかし、その後、日本はバブル崩壊を経験します。

そして長い低成長の時代へ入っていきます。

ここで注意したいのは、「消費税を導入したから、失われた30年が始まった」と本稿は結論づけていないことです。

そんな単純な因果関係ではありません。

  • バブル崩壊
  • 金融政策
  • 不良債権問題
  • 人口構造
  • 雇用構造
  • 企業の海外移転
  • デフレ
  • 社会保障負担
  • そして世界経済の変化

…多くの要因が重なっています。

だからこそ、第2部で検証していきます。


第1部まとめ――「第二の黒船」のあと、日本は何を選んだのか

1980年代。

日本は、世界史でも例を見ないほど急速に経済大国へ成長しました。

人口は米国のおよそ半分。

国土は約26分の1。

それでもGNPは米国の半分を超え、一人当たりGNPでは米国を上回るところまで到達しました。

その日本を、米国は詳細に分析していました。

CIAにはJapan Branchが存在し、日本経済だけでなく、日本政府が米国との交渉でどこまで譲歩する可能性があるのかまで分析していました。

その情報はホワイトハウスへ提供され、USTR、財務省、商務省などの政策形成と結びついていました。

しかし、それを、「米国が日本を潰そうとした」という物語だけで理解することも、本稿の目的ではありません。

米国には米国の国益がありました。

冷戦下、西側世界の安全保障を支える巨大な負担を背負いながら、国内では製造業の競争力や雇用への不安が高まり、対日貿易赤字が拡大していました。

その一方、日本は米国が支える国際秩序の中で成長し、世界第2位の経済大国になっていました。

米国が日本に市場開放と経済構造の変化を求めたことには、それなりの背景がありました。

そして日本にも、日本の選択がありました。

中曽根政権は市場開放を「自主的な政策」と位置付けました。

プラザ合意を受け入れました。

内需主導型経済への転換を掲げました。

そして中曽根政権から竹下政権へ引き継がれた税制改革の中で、日本は消費税という新しい税を選択しました。

だからこそ、本稿が問いたいのは、「誰が日本をこうしたのか」ではありません。

問いたいのは、「日本はなぜ、この政策を選択したのか。そして、その選択は正しかったのか」です。

1989年に3%で始まった消費税は、その後5%、8%、10%へと引き上げられました。

一方、日本は長期にわたる低成長を経験しました。

では実際に…

  • 消費税は家計消費に何をもたらしたのか
  • 実質所得には何が起きたのか
  • 企業活動にはどう影響したのか
  • 税収は本当に安定したのか
  • 所得税・法人税との関係はどう変化したのか

そして、人口減少と少子化が進む日本で・・・

  • 消費に課税し続けることは、これからも合理的なのでしょうか
  • 逆に消費税を廃止した場合、税収減を何によって補うのか
  • 内需拡大による所得・法人税収の増加だけで、本当に代替できるのか
  • 財政、社会保障、国債、物価への影響はどうなるのか

都合のよい数字だけを並べるのではなく、そこまで検証しなければ、

「消費税は悪税である」とも、「消費税は必要不可欠である」とも結論づけることはできません。

第2部では、1989年から現在までの日本経済をデータで追います。

そして最後に…

  • 消費税を維持する日本
  • 消費税を廃止する日本

二つの未来を比較したいと思います。

これは過去の政策を断罪するための記事ではありません。

これからの日本が、もう一度成長するために何を選択すべきなのか。

その答えを探すための検証です。

――第2部へ続く。

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