英国政府が示した新たな設計思想 ― 「フォレンジック 可観測性」とは何か
サイバー攻撃は年々高度化し、ランサムウェアや国家支援型サイバー攻撃は、企業や政府機関の事業継続そのものを脅かす存在となっています。
これまでサイバーセキュリティの世界では、「いかに侵入を防ぐか」が中心的なテーマでした。
しかし、英国政府通信本部(GCHQ)傘下の国家サイバーセキュリティセンター(NCSC)が公表した文書を読んで、私は「世界はすでに次の段階へ進もうとしているのではないか」と感じました。
NCSCは、英国政府機関だけでなく、重要インフラ事業者や民間企業に対してサイバーセキュリティの指針を示す中核機関です。その提言は実践的な内容が多く、英国国内にとどまらず、国際的にも注目されています。今回紹介する文書も、その一つです。
今回紹介する文書のタイトルは、次のとおりです。
「Making Forensic Observability the Norm for Network Devices」
直訳すれば、
「ネットワーク機器において、フォレンジック可観測性を標準とする」
という意味になります。
一見すると、ネットワーク機器のログ取得や監視機能について述べた技術資料のように見えます。
しかし、その内容は技術論に留まりません。
私は、この文書はサイバー防御そのものの設計思想を問い直す提言だと受け止めました。
「侵入を防ぐ」だけでは、もはや十分ではない
NCSCは、現在のネットワーク機器について、調査に必要な情報が十分に取得できない場合があることを問題視しています。
インシデント発生後…
- どこから侵入されたのか。
- 何が実行されたのか。
- どの設定が変更されたのか。
- どの範囲まで影響が及んだのか。
こうした事実を再構成することが困難になるケースが少なくありません。
そこでNCSCが提唱しているのが、「フォレンジック可観測性(Forensic Observability)」です。
これは単にログを増やすという話ではありません。
防御担当者がシステムの挙動を理解し、インシデントを迅速かつ確実に調査できるよう、必要な情報を最初から取得できるよう設計する。
それが、この提言の中核となる考え方です。
ログではなく「証拠」を残すという発想
NCSCは、可観測性について次のような趣旨を述べています。
システムは、自らの挙動を理解するために必要な情報を提供できるよう設計されるべきである。
この一文は非常に示唆的です。
多くの企業ではログを取得しています。
しかし、ログが残っていることと、攻撃の全容を解明できることは同じではありません。
インシデント対応で本当に必要なのは、
「通信記録があるか」
ではなく、
「何が起きたのかという事実を再構成できるだけの証拠が残っているか」
という点です。
私は、この発想の転換こそ、この提言の本質ではないかと感じています。
NCSCが先回りして答えた「3つの誤解」
この文書で特に興味深かったのは、「よくある3つの誤解」と題した章です。
NCSCは、フォレンジック可観測性について予想される反論を、自ら取り上げています。
「攻撃者を利することにならないか」
詳細なログやフォレンジック機能を備えれば、攻撃者にも利用されるのではないか。
こうした懸念に対し、NCSCは明確に否定しています。
その理由は、適切に設計されたフォレンジック機能は、文書化されていない手法や脆弱性調査に頼るよりも安全であり、防御能力そのものを高めるからです。
つまり、「見えるようにすること」は、セキュリティを弱めるのではなく、むしろ強化するという考え方です。
これは、日本でも今後議論になるテーマではないでしょうか。
「顧客はそんな機能を望まないのではないか」
これに対しても、NCSCの答えは明快です。
重要インフラを運用する組織は、むしろベンダーに対して「より高い可視性」を求めている、としています。
システムの動作を確認できること。
問題発生時に迅速に調査できること。
それは運用者に安心感を与え、結果として製品への信頼につながるという考え方です。
「実装は難しすぎる」
最後の誤解は技術的な課題です。
しかしNCSCは、「確かに綿密な設計は必要だが、設計初期から可観測性を組み込めば、それはプラットフォームの自然な一部になる」と述べています。
つまり、インシデントが発生してから後付けで対応するのではなく、最初から設計思想として組み込むべきだということです。
技術論ではなく、未来への設計思想
私がこの文書を読んで最も印象に残ったのは、NCSCが終始「設計思想」を語っていることです。
NCSCは、「どのメーカーの製品を採用すべきか」「どのログ形式を採用すべきか」といった個別の技術論ではなく、その土台となる設計思想を示しています。
だからこそ、この文書は特定の製品や技術を推奨するものではありません。
ネットワーク機器そのものを、「侵入を防ぐ装置」から、「侵入後に事実を解明できる装置」
へと進化させるべきだ。
そんな未来像を示しているように感じました。
日本企業・経営者への問い掛け
この提言は、技術者だけに向けられたものではないと私は考えています。
もし重大なサイバー攻撃を受けたとき、
- 自社は何が起きたのかを説明できるのか。
- 被害範囲を迅速に特定できるのか。
- 再発防止策を事実に基づいて示せるのか。
これらは企業の信用や事業継続に直結する経営課題です。
だからこそ、「どのようなネットワーク機器を採用し、どこまでの可観測性を求めるのか」という視点は、今後、経営層にとっても重要なテーマになっていくのではないかと考えます。
NCSCが最後に伝えたかったこと
NCSCは、この提言の最後を次のような趣旨で締めくくっています。
「可観測性とは、究極的には防御担当者が職務を適切に遂行できるようにすることにある。システムが自らの挙動を理解するために必要な情報を提供することで、組織はインシデントを迅速、確実、かつ安全に調査できる。それはベンダーにとっても、運用者にとっても、そしてエコシステム全体のセキュリティにとっても利益となる。」
私は、この一文にこの提言全体の本質が凝縮されているように感じました。
フォレンジック可観測性とは、新しいログ機能や監視機能を追加することではありません。
「防御担当者が真実へたどり着ける環境を、最初から設計する」という思想そのものなのです。
ネット探検ラボより
今回紹介した「フォレンジック可観測性」は、新しい製品や技術の名称ではありません。
繰り返しますが、それはサイバー攻撃が避けられない時代において、「防御担当者が真実へたどり着くための環境を、あらかじめ設計しておく」という新しい思想です。
英国NCSC、そしてFive Eyes諸国の関係機関が、この方向性を提唱した意味は決して小さくありません。
この考え方が世界標準となるのか、それとも新たな議論の出発点となるのか。
ネット探検ラボでは、このテーマを数回にわたり掘り下げながら、未来のサイバー防御の姿を考えていきたいと思います。
次回は、この設計思想は現在のネットワーク機器でどこまで実現できるのか、主要メーカーの現状を調査しながら検証してみたいと思います。
📄 参考資料(原文)
今回の記事は、英国国家サイバーセキュリティセンター(NCSC)が公開したブログ記事および、Five Eyes共同ガイダンスを基に執筆しました。
より詳しい内容を知りたい方は、ぜひ原文もご覧ください。
- Making forensic observability the norm for network devices(NCSC Blog)
- Guidance on digital forensics and protective monitoring specifications for producers of network devices and appliances(Five Eyes共同ガイダンス)
※本記事では概要を紹介しています。実際の要件や推奨事項については、原文をご確認ください。



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